意外に昔からありました



 数千年以前の昔でも、虫歯や歯周病、摩耗により歯がすりへり、歯の神経が露出するなどにより、抜歯がおこなわれていた痕跡がみられます。

 地中海周辺の古代フェニキアのシドン(現在のレバノン・サイダ市)では、紀元前5世紀頃の墓から、下の前歯を金の針金で結んで固定したものが発掘されています。



これと似たようなものは5000年くらい前のものとしてギーザのピラミッド付近からも発見されています。

これらは歯が抜けないように隣の歯に縛りつけたもので、金の帯状の板で両隣の歯を土台とし、天然歯に縛って固定し、歯のない部分を補ったブリッジタイプの入れ歯もありました。



今の取り外しの入れ歯に近い物を日本ではかなり昔から製作していました。

発掘された中で、日本最古の入れ歯は、 全部「木」でできた「木床義歯」です。

天文7年(1538年)4月20日に74歳で亡くなった、 和歌山市の願成寺の仏姫という尼僧の装着していたものでした。

この入れ歯は、黄楊(つげ)の木を彫ったもので、 歯の部分と歯肉の部分が一体になっています。

奥歯のところが磨り減っていることから、実際に使っていたと想像できます。

1538年ということは、室町時代の入れ歯ということになります。

木床義歯は最初、仏師や能蔓師、根付師などが木を彫るのが得意な人が手慰み程度から始めたものと言われています。時代とともに仏像彫刻の注文がだんだん少なくなり、逆に「入れ歯を作ること」が生活の糧となり、「入れ歯師」と呼ばれる専門職になっていきました。「入れ歯師」は香具師(てきや・やし)の組織に属していました。当時の歯医者さんである「口中医」は、一般医学を修得して、口腔疾患・咽喉疾患が中心で、抜歯も行っていましたが、義歯を作ることはありませんでした。




江戸時代には独特の技法が完成しました。

奥歯の噛む面には鋲が打ってあり、 歯が残っている部分は、邪魔にならないように隙間をあけて作ってあります。

食事をすることを前提に粘膜部も出来るだけ適合させて、作ってあるのが分かります。

粘膜との隙間の適合しにくいところは、和紙をぬらして入れ歯の粘膜面に当てて、くっつくように工夫していたようです。

「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴(1676〜1848)は甘いものが大好きで、若い頃からムシ歯に悩まされていました。 57歳には総入れ歯を使い始めたそうです。馬琴日記には、入れ歯を修理してもらった当時の記録が残っています。前歯をとめた三味線の糸が切れて入れ歯師に締め直しに出したり、入れ歯の奥歯に金属の鋲を打っなど修理してもらった当時の記録が残っています。

△かけかえ入歯上之方、糸つぎ直し之事、神楽坂吉田源八 へ申付候様、注文ふくめ、右 入はここ入、為持遺す(文政 10年11月15日)

△過日、吉田源八に申付させ候入歯つなぎ直しの事、歯二  枚打 損候に付、 取かへ可申、 依之、代四匁のよし、申 之、金壱 朱にて申付候示談(文政10年11月19日)

△入歯師源八、下歯鋲打せ候事、10本にて不足のよしにて 19 本、打之、壱本弐分 弐厘づつの処、金一朱にいたし  候、右 鋲打せ持参、則、右 代金壱朱渡し(天保5年10月 15日)

なお滝沢馬琴は明治以後に使われたもので、筆名は曲亭馬琴です。読み方を変えると「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味です。
ヨーロッパでは 近代歯科医学の父と呼ばれる、フランスのピエール・フォシャールが発刊した「歯科外科医」という本の第2版(1746年刊)から、「総入れ歯」が登場しています。

当時は現在のように顎の粘膜に吸い付くという原理がまったく考えられていませんでした。

金属で作った入れ歯を上下に入れて、 バネの力で支えていたので、装着しても不安定でした。

食事をするのはほとんど無理で、見た目だけの入れ歯だったようです。歴史の長さだけでなく、 使い勝手も日本の物のほうがはるかに優れて進化していたと言えます。





 
 当時、入れ歯の材料としては、カバ・セイウチの牙・象牙・動物の骨・金属などが用いられていました。また金属にはエナメルを塗ったり、ホーローを焼きつけたりしていました。

これらの動物の牙や骨などの材料で作った入れ歯は、腐_してひどい臭いがしたり着色したりした。

多くの人が集まる所では、扇であおぎ悪臭から守り、汚れた歯を隠し、強い香水をつけて匂いを消しました。

体臭ばかりでなく、歯の臭いも消さなければならなかったのです。
 
死んだ人の歯も売り物となったため、1815年ワーテルローの戦場からも多くの歯が各地に送られました。

 1862年の歯科用品販売業者のカタログには、多くの等級を付けたものが記載されており、アメリカの南北戦争(1860〜65)の頃も、戦場から人の歯が樽に詰められて英国に船便で送られたといいます。

 腐敗、着色、悪臭のない材料として、陶材(ポーセレン)で焼いた入れ歯を作ったのは、1774年パリの薬剤師のデシャトーと歯科医ド・シャマンです。

ピンク色に着色した土台(床)と白い歯が一体となった入れ歯です。

しかし制作過程で陶材に熱をかけて焼くことにより収縮し変形するため、顎の粘膜に適合させることが難しかったようです。

 ド・シャマンは、パリで開業していたが、1792年にロンドンに移り開業し、ウェッジウッド会社(現在の英国の陶器で有名な会社)の協力で1804年までの間に12,000個の陶器の入れ歯を作ったといわれています。

これらの入れ歯は、上下ともスプリング付きで維持していたため、食物を噛み砕くことは難しかったようです。





アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン(1732-1799)は、二期8年間在職したが、入れ歯に悩まされていたといいます。

彼は歯が悪く、28歳で部分入れ歯を使いだし、大統領になったときは下の1本の歯(小臼歯)しか残っていなかったようです。

彼は何回も入れ歯を作り直しており、最初のものは鉛合金に蜜_を塗り、上の歯は大鹿の牙、下の歯は人間の歯が埋め込まれたもので、重さは1.3キログラムあったといいます。

ワシントンは、歯科医ジョン・グリーンウッドに4回入れ歯を作ってもらっています。

3回目の入れ歯は、上は金の土台にカバの牙で作った歯が金のネジで取り付けられ、下の入れ歯はカバの骨で作られ、上下はスプリングで結ばれていました。

スプリングで維持する入れ歯は、うっかりすると口から飛びだすため、しっかり噛んで口元を閉めておかなければなりませんでした。

アメリカの1ドル紙幣にあるワシントンの口元は、入れ歯を噛んで緊張した口元です。

ワシントンは、入れ歯のためか、晩年は怒りっぽく演説も避け、人に会うのも嫌がったとのことです。


ワシントンの入れ歯

 


17〜18世紀の欧米では、フォシャールの『歯科外科医』のスプリング付きの入れ歯であり、現在のような顎の粘膜に吸着する入れ歯は考えられませんでした。

欧米でこのような吸着する原理がわかったのは、1800年フィラデルフィアの歯科医ジェームス・ガーデットの発見によるものでありました。
彼は、女性患者に象牙を彫刻した上の入れ歯がスプリングを付けずに安定していることをたまたま発見したのです。

当時アメリカにおいてもなかなかこれらの事実が信用されず、この大気圧で吸い付く原理が理解されてヨーロッパに伝わったのは、およそ35年後でありました。

 スプリングのない吸着入れ歯の普及には、グッドイヤーによりゴムを固める蒸和ゴムの開発が貢献しました。



1850年グッドイヤー兄弟は、入れ歯用に蒸和ゴム(硫化ゴム)を開発し、顎によく適合する画期的なものであり全米に普及しました。

そして、現在用いられているアクリリック・レジンが発明されるまで、世界中において入れ歯の材料として用いられました。

 陶製の人工歯は、世界中で使われていますが、17,18世紀にはフランス・イギリスにおいて、陶器の入れ歯をヒントに人工歯が工夫されました。

S.S.ホワイト(アメリカのS.S.ホワイト社の創設者)やグローデアス・アッシュ(イギリスのアッシュ社の創設者)が、人工歯の材料を研究して、現在のような人工陶歯となったのです。